退屈感を読み解く
この記事の目次
はじまり
こんにちは、山田結子です。
すっかり寒くなりました。私は、運動のために、買い物はできるだけ歩いていくようにしています。ただ、寒くなると、外に出たくないという気持ちが湧いてきます。体のためにも怠け心に負けずこの冬を乗り切りたいです。
今回は、退屈感についてです。
先日、買い物に行く途中に、「退屈だ」という思いが生じてきました。特別なきっかけがあったわけではありません。不意打ちのようにその気持ちが出てきて、昼食を外で食べたいと思いました。気晴らしがしたいような気分に思えました。
食べに行ってはいけないというわけではないです。しかし、やるべきことはたくさんあって、退屈だと言っている状況ではないのが現実です。家に帰ったら、返そうと思っているメールもいくつかありました。このまま食べに行っても、やることが頭を占めていて、落ち着かずに過ごしてしまう気もします。行くことで活力が生じるならいいのですが、ただ時間が過ぎていくだけなら、早めに帰るのが賢明かもしれません。
どうするのが最適なのか、しばらく悩んでいました。そして、この退屈感が一体なんなのか、もう少し意識を向けてみることにしました。すると、不安や怖れから衝動的な行動をしようとしているように思えてきました。心の学びをする中で、自分からいい流れを壊してしまう現象があると聞いたことがあります。成功することを許容できない気持ちがあり、上手くいく流れを自分で壊し、やはり成功しなかったという現象を引き起こすパターンがあるという話でした。
もしかしたら、これもそういうものの一種かもしれないと思いました。この現象を自覚したのは初めてだったので、詳しく紐解いてみようと思います。
退屈感をそのまま受けとめる
まずは、この退屈感をそのまま感じてみます。しばらく浅い感覚の状態が続きました。そのまま維持して、感覚により集中していくと、退屈感に伴っていくつかのイメージが見えてきました。退屈すぎると、死んでしまうようなイメージです。
現実的には退屈であることと、人の生死は関係ないと思えます。しかし、なんらかの理由で、私の感覚では関係あることになっているようです。人が死ぬのは、退屈だからではなく、ほとんどは肉体が維持できないなんらかの理由が生じていたためです。退屈さは、主体的にやりたいことがないことから生じるものかもしれません。
もう少し、退屈感に意識を向けていきます。
しばらく意識を向け続けると、強い怖れが生じてきました。よく感じていくと、子どもの頃に持っていた感覚のように思えます。インナーチャイルド(幼少期の満たされなかった思いや自分の存在を否定する気持ちなど)の類いではないかという気もしました。
子どもの頃の状況をイメージしながら、怖れを感じ続けました。すると、私は一人でいることに強い怖れを感じていたようでした。
状況を考えると、子どもは親に24時間構ってもらえるわけではありません。私が子どもの時も、一人で寝かされていたり、一人で家の中で遊ぶように言われたりしたことも多かったと思います。
本を読んだり、何かを食べたりしている時は、怖れを感じていないようでした。しかし、何もすることがないという退屈感を感じると、本を読み続けたり、食べたり飲んだり過剰にしていたようです。そうした行動は、そもそも怖れを感じないようにするためにしていた行為なのかもしれません。
一人でいる時の怖さを感じる
では、一人でいる時に感じている怖れを見つめることで、この過剰反応を減らすことができるでしょうか。もう少し詳しく、幼少期の感覚を感じてみます。
少し混乱したような、頭を振り回すような感覚があり、無気力感や絶望感、親から愛されていないのではないかという思いが見えてきました。同時に、強い怖れが生じてきます。自分が愛されていないと感じていることを認めたくないという強い意識があり、それが混乱の要因になっているようでした。
子どもの頃、私は愛されていないと思っていたのでしょうか。当時の状況を再確認してみると、愛されていないというより、理解されていないような印象もあります。自分の気持ちや困っている日常のことが理解されていないがゆえ、親に放任されているように感じていたようです。また、非言語の領域で愛されているような感覚がなく、親との間で信頼関係を持てていなかったようにも思います。
本音では、人に理解されないことが当たり前になっていて、誰かに愛されたり、親愛の情を持たれることがないように思っていました。しかし、同時に親から愛されているという状態を演じたいと感じているようでした。幻想の世界と、実際の状況がずれていたのです。
私は愛されていないという思いを感じる
今度は、私は親から愛されていないという思いを感じてみます。すると、私は誰からも愛されないという信念のようなものが感じられてきました。しばらくその処理をして、引き続き進めていきます。
進めると、かなり強い怖れが生じてきました。絶望感を伴っていて、全てをなくしたような感覚です。自分を支えているものがないような、かなり不安定な感覚です。具体的に何が要因なのかわからないですが、中学生の時に同居していた母方の祖父、父方の祖母が亡くなっています。その中で家の建て替えによるローンが始まるなど、家庭は激動の渦の中にいました。
その状況と重ねると、親は親なりに大変な時期をむかえていたのかもしれません。その分、私も潜在的な不安や怖れを抱え込みやすくなり、それを相談できる相手もいなかったので、孤独に陥りやすかったのかもしれません。
幻想と事実の両方を意識する
ここまで向き合ってきたことで、親に愛されている幻想の自分と、現実に不安や怖れを抱えている自分を意識できるようになってきました。
コミュニケーションの視点から、親の行動や言動を振り返ると、私の両親は子どもに対していい立ち位置をとれていないとは思います。子どもを自分達の都合に合わせようとしていたり、子どもの立場や考えを尊重しないのが、家族の基本姿勢なのです。まずは、その現実を見るという方向に力を入れてみます。
すると、親に対する強い怒りが湧いてきます。怒りに憎しみが重なっているようでもあります。感じていると、怒りで全身が痺れるような感覚もあります。十分に感じてみると、この怒りは自分には価値がないのではないかという気持ちと関係しているようにに思えました。
親が私をどのように扱うか、愛されているか、大切にされているかが私の自己価値と深く関係しているようでした。客観的に見ると、親と私の価値は関係ないのですが、親に必要とされておらず、愛されてもいないと感じていることは、自分がどのように生きればいいのか見失いやすい状況だったのだと思います。
その状況を理解すると、私の価値と親は関係ないということが少しずつ受け入れられてきました。子どもが私でなかったとしても、親の態度が大きく変わったとは思えません。親も一人の人間であり、できることとできないことがあり、難しい状況の時はやはり難しいことに変わりはないのです。
そのことを受け入れると、あの両親の下、あの家に生まれたことを受け入れる気持ちが生じてきました。スタート地点があの家だっただけで、今の私がどう生きるのかは、私が決めるのがいいということも、腑に落ちてきました。
まとめ
では、これまでの流れから振り返っていきます。
私は、自己評価が低かったために、愛されている、大切にされていると過度に思い込むことで、自己価値を高くしようとしていたのでしょう。しかし、内心では自分は愛されていない、理解されていないという思いに苦しんでいました。そのずれがあったため、時折、退屈感という形で衝動的な怖れが生じていたのでしょう。
では、当初の退屈感を振り返っていきます。
一人で過ごしている時間が長くなると、誰からも愛されていない、大切にされていないという思いがなんらかの理由で刺激されていたのだと思われます。一人で何かを取り組み続ける必要があるときは、この思いが抵抗の原因にもなっていたのでしょう。
再び、退屈感に意識を向けると、自分は必要とされていない人間ではないかという気持ちも湧いてきました。こうした思いは、過度に人の役に立とうとしたり、人と関わろうしたりする気持ちになって現れたかもしれません。少し意識を向けていると、退屈感自体が霞んできました。
いかがでしたでしょうか。
退屈感から自分が愛されていないのではないかという気持ちを発見し、その周辺の感情を取り扱ってみました。
このコラムを通じて、新しい発見があれば幸いです。歩いている時にふと生まれた退屈感から、ここまで典型的なインナーチャイルドを発見できるとは思ってもみませんでした。しっかりと受けとめて、解決していきたいと思います。
自己探求&感情カウンセリング
山田結子