中学受験が人生に与える影響と自由なキャリア
私は中学受験をして、中高一貫校に入学しました。高校受験はないので比較的のんびりした中学生時代を過ごしましたが、小学生での受験は思い返すと大変でした。先日、当時の受験トラウマが自分の人生に影響を与えていることに気がつきました。それは隙間時間にする仕事を探していた時のことでした。
この記事の目次
気軽な仕事探しのはずが…。
いくつか候補の求人を並べて、どこに応募するか考えていました。実際に働くことになった時の生活をシュミレーションしたり、仕事内容を見て自分に合ったものはどれか考えていたのです。
色々考えた結果、まずは気になる会社に登録をしました。案件があれば紹介されるタイプの仕事なので、実際に仕事をすることになるかどうか分かりません。一件だけ紹介されることもあるし、同時に何件か紹介されることもあります。ひとまず登録を済ませたら、あとは待つだけという状況でした。
「もうあとがない」つきまとう切迫感
頭では色々シュミレーションして、案件がどれくらい欲しいとか、こんな案件がいいとかイメージが膨らんでいました。でも、その通りに行くかどうかは分かりません。
その時、ふと窮屈さを感じました。自分の思い描いたようになってくれないと困るとか、その通りにならなかったらお先真っ暗、という感覚があったのです。後がないような切迫感がつきまとっていました。
自分を追い詰めるパターンへの自覚
振り返ってみると、この追い詰められる感覚は仕事を選ぶときに限らず、いろんな選択について回る感覚でした。
例えば、かつて旅先を決める時にも同じ感覚を感じました。一度プランを立てると「これがうまくいかなかったらもう後がない。」という感覚で旅先に行くのです。
「うまくいかなかったらどうしよう」「今予定している通りにならなかったらどうしよう」と、いつも不安に感じていました。
想像できるベストな未来以外を柔軟に受け入れることが難しい気持ちでした。当然、それ以外の可能性を模索することはなく、ひたすらそれがうまくいくよう、不安と共に祈っていました。何かを選ぶとき、必要以上に自分を追い詰めているパターンを自覚しました。
顕在化した受験トラウマ
この感覚に気がついてから、頭では「なんで自分を無駄に追い詰めてしまうんだろう。」と不思議に思っていました。意識を向けてみましたが、なぜこの感覚になるのかは分からないままでした。
しばらくその感覚を見つめていると、体が潰されるような窮屈さを感じました。上から潰されるようでもあるし、体が何かに引っ張られている感じもありました。引っ張っているのは何かを圧縮したような黒っぽい固まりでした。
その塊は小さいときからずっとある気がしました。今回改めて見つめてみると自分の一部ではないと感じますが、かつては自分の一部だと勘違いして生きてきた気がしたのです。
その塊を見つめていた時のことでした。ふと、中学受験の合格発表の様子が蘇ってきました。それは合格者の受験番号が張り出されている掲示板に向かって歩いている場面です。
「自分の番号がなかったらどうしよう」と不安でいっぱいになりながら母と掲示板に向かっているときの気持ちを鮮明に思い出しました。
そして「そういえば、無駄に自分を追い詰める感覚は、受験勉強している時の感覚と似てるかも」と感じました。潜在意識に埋もれていた中学受験の時の感情が顕在化した瞬間でした。
失敗を許されない世界を生きる
当時のことを思い返してみると「落ちたら後がない」「受からなかったら人生は終わったも同然」と感じでいました。
私は公立中学が合わないという理由で、母から中学受験を提案されていました。そのせいか「公立中学に行くときっといじめられる」というよく分からない思い込みも持っていました。それ以上に強かったのは「お母さんが悲しんだらどうしよう」という不安と母の期待に添えなくなる怖さでした。
それは「落ちたらどうなってしまうんだろう」と崖から下を見下ろすような恐怖でした。「もし落ちたら…」と考えると、母のがっかりする顔が目に浮かび、恐怖に追い詰められたのです。
まさに失敗が許されない世界です。どんな選択でも「これがうまくいかないと後がない」と自分を追い詰めてしまう感覚は中学受験の時に生まれた、私のこの世界への間違った認識でした。受験は終わっても残っていた当時の感覚が、大人になっても変わらず、自分を追い詰め、失敗を許さない厳しい世界を私に見せていました。
失敗を怖れる自分からの卒業
それに気がついてからというもの、追い詰められるような感覚は少なくなってきました。正確には、ふと湧いてくるものの客観視できるようになりました。
客観視することができると「これは中学受験の時の感覚だ」とリアルタイムで判断することができるようになりました。そうやって気がつけば、別の考え方を採用できるようになっていきました。
次第に「うまくいかなかったらどうしよう」と先のことばかり考えて思考停止してしまっていたのが「うまくいかなくても別に構わない」という感覚を持てるようになりました。
そうなると、「その時のベストを尽くそう」と思えたり、「これがうまくいかなかったら、こんなのもいいかな」と楽しんで考えられるようになりました。
失敗に対する認識にも変化が起きてきました。「失敗したら終わりだ」という怖さは薄らいでいき「失敗は思考錯誤している途中の通過点で、それ以上でもそれ以下でもない」という認識になっていました。
追い詰められる感覚が少なくなったことで、物事をありのままにとらえることができるようになりました。自然とプロセスに目がいくようになったので、結果に囚われたり、それによって自分を評価することもなくなってきました。プロセス自体を楽しめるようになってきたのです。
失敗は終わりではなくプロセスだと腑に落ちたとき、失敗を怖がる必要はなくなりました。失敗したって、世界は終わらないからです。
結果よりも本音を重視
失敗に対する認識が変わると並べる選択肢が以前よりも数が増えました。今まであったのに見えていなかった選択肢が突如現れたような感じでした。
以前は、すでに経験済みの安全なものを並べる傾向にありました。でも、「失敗してもいい」とプロセスを楽しめる心持ちになったことで、今まで排除していたものを選択肢に入れるようになりました。
実際に、今までなら後悔すると嫌だからやめておこうと思って行かなかった場所に行ってみたら、嬉しい出会いに恵まれたことがありました。それがきっかけで、さらにご縁が繋がったり、新しい情報が入ってきたり、なんだか人生の幅が広がったような気になりました。
以前は結果を気にして、本当にやってみたいことを避けてしまっていたのかもしれません。未来への不安やコントロールを手放すことができると、より本音を重視した選択をできること、自分の未来を楽しみにできることを実感しました。
受験トラウマの癒しと自由なキャリア
この世界をどう見るかは「幼い頃この世界をどうとらえたか」に大きく左右されるものです。
時折感じる失敗を許さないような社会の空気感は、多くの受験経験者の持つ受験トラウマが陰で影響を与えているのかもしれません。
今回、私の受験トラウマが癒されて世界の見方が変わったように、多くの人が持っている受験にまつわるネガティブな感情がクリアになったら、社会は大きく変わるのかもしれません。
「将来が不安だから」「失敗が怖いから」という動機で作るキャリアから、本音を大切に自由にキャリアを描く社会への変化です。その可能性を感情のクリアリングに見た気がしました。