合唱に参加。歌うのが苦手なのを克服できるのか? 

自分にとって得意なことは手をつけやすく、上達も早いと思います。
やろうと気合を入れることなく自然に集中しながら、あれもこれもと工夫をしたり、さらにレベルアップするために練習したりとするのは苦ではないと思います。
むしろ、そのプロセスを楽しんでいますよね。

 

それとは反対に、苦手だと思っていることを取り掛かるのは気が重いものです。

 

苦手と思う裏には何かしら心理的な障壁があるからです。

 

アラフィフの私が人生の中の苦手!合唱に参加することになりました。
ああ、苦手なことは苦手なままで終わってしまうのでしょうか、それとも…。
ただいま挑戦中です。

 

合唱をやることになったが上手く歌えない

私は人と何かを生み出したり、作り上げたりするのが苦手です。
ひとりで自分のやりたいように進める方がストレスがなく、集中もできて自分のスタイルとしてはいいかと思っています。
心のどこかでは、いつも人との交わりを面倒と感じているのです。

 

そんな私が、合唱でアルトのパートを歌うことになりました。

 

合唱は、高校の文化祭の催しでクラス対抗のコーラス大会があり、それに参加して以来です。
音楽は、子どもの頃はピアノを習っていましたが、姉が習っていたので同じように習いに行っていただけで、音楽が好きだからというものではありませんでした。
日々の練習も怠けていたし、手が小さいので鍵盤の一オクターブに届きません。
レッスンの順番待ちで読む漫画雑誌がの楽しみで通っていたようなものです。
上達するはずもありません。

 

今思うと、楽譜を読むのも苦手意識がありました。

 

歌うことも、音を聴いても音程がわからず、声に出しもてズレているということから、恥ずかしい、悲しい、情けない想いが音楽の時間にはありました。

 

そんな私が50歳を過ぎて合唱です。
練習に初めて参加して、大変なところに足を突っ込んでしまったと気持ちはブルーでした。

 

できない自分、こなせない自分を見せたくない、隠したい

合唱メンバーはすでに練習を積み重ね、公演も経験し、私より「できている」人たちです。
周囲ができている中で「できない自分」を感じるのはとても孤独な、取り残された感があります。
そんなだから、合唱ができない自分をさらすのは自分が崩れるような苦しさを感じていました。

 

合唱のパートはアルトです。
主旋律に引っ張られて、音がわからなくなって、アルトを歌っているつもりがいつの間にか主旋律になってしまいます。

自分に自信がないからでしょうか。
聴覚がおかしいからでしょうか。
ちゃんと覚えていないからでしょうか。
慣れていないからでしょうか。
やっぱり能力がないのでしょうか。

 

どれにも取り組むべき課題はありますが、精神的に一番こたえるのが指揮者の聴覚の良さです。
「できない自分」を隠したくて声が小さくなっても、指揮者にはお見通しです。
「アルトにも声が出ていない人がいますね」なんて言われると、誰を差しているか一切言っていないのに自分のことだと思って凹みます。

 

初心者だから歌えなくて当たり前という考え方もありますが、それよりも、指揮者には私ができていないのがお見通しで、「できない私」に落胆しているのではないかという怖さが出てくるのです。

 

今まで好意的に私を見てくれているなら、「できない私」はその好意や期待を裏切るようで、嫌われるようで怖いのです。

 

だから、なんとしても「できる私」にならねばと思います。
でも、できなくてつらいのです。

 

優等生であり続けることを課した子ども時代

子どもの頃を思い出してみると、算数の九九を覚える時
クラスの友だちと九九を始めたスタートは同じです。
でも、暗記の不得手や練習量からいつの間にか差ができてきます。

その時には、取り残されたくないという想いや、自分は劣っているのだろうかという不安や焦燥感を感じていました。

 

幼い頃から、おそらく幼稚園児の頃から親や先生の目には優等生であった私にとっては、できないことをできないと割り切れるほど心は強くありません。
優等生に見られているなら優等生をやり続けて、自分を保とうとしていました。
優等生であることで、自分の存在価値を周囲に認めてもらえるという風に思っていたようです。
親や先生にほめられれば、自分を認めてもらえて自分を大切にされると思っていました。

 

親や先生に対して優等生であるために、常に頭を働かせ、親の期待通りの答え、あるいは先生からの質問にもっともらしい答えを用意していました。
模範解答です。
自分の本当の想いとは別に100点をもらえるような解答を言うのです。

 

例えば、「学校の規則は守らない人はダメだと思います。」と社会的にも間違いのない模範解答を言うのです。
そして、実際に規則をきっちりと守りました。

 

「しました」というより「しなければいけない」という観念からの行動です。
ただ、「なぜ」しなければいけないのかには疑念も持たずにやっていて、本人としては当たり前のことでした。

 

クライアントとして感情カウンセリングを受けてみた

感情カウンセリング通常セッションの形で、仲間の感情カウンセラーに「合唱を嫌だと思うこと」を扱ってもらいました。

 

私自身、感情カウンセラーですが、自分自身の課題を扱うのは骨の折れる作業です。
見たくない、触れたくない何かを自分で掘り起こすのは、無意識に逃げてしまってなかなか本音にたどり着けないからです。
それならば、本音を掘り起こすナビゲーター役を誰かに委ねた方が自分の心の声に手が届きやすいのです。

 

感情カウンセラーはクライアントさんの言動に一切の判断をしません。
なので、こちらが話せない時や話したくない時は、そのまま見守って待っていてくれる感じます。

 

私が無言になっていた時に、実は、感情カウンセラーに対しても自分をさらしたくない気持ちが湧き上がってきて、なんとかごまかそう、隠そうとする自分がポロっと出てきました。

 

「ポロっと思い浮かぶ」というのが正しいかもしれません。
本当にポロっと、これか!という感じで思い浮かんだのでした。

 

気づき

感情カウンセラーとの会話から、今まで作り上げてきた自分が壊れるのが怖いのと、壊れるのを無様だと思っていて無様な自分を誰にもさらしたくないと思っているのを自覚しました。
無様な姿をさらすくらいなら、孤高の人として独りぼっちがいいとまで思っていました。

 

ただ、孤高の人は孤独もあり、その孤独を悲しいものと捉えている自分もいました。

意外な感じもありましたが、その通りだなという納得感もありました。

 

歌ってみようかと前向きになれた

自分なりに「無様な自分をさらすのが嫌だ」と思っているのがわかって、感情カウンセリングの後はすっきり感がありました。
このすっきり感は「そうだったんだ」という納得感です。

 

同時に「そうだよ、なぜさらさないといけないのよ!」という相反する感覚もありました。
私の心の中ではいつも相反する声が聞こえてきます。

 

まだまだシーソーしている感じではあるけれど、少し歌うことに気楽さが出てきました。
できない自分が少し和らいだ感じです。

 

「できない私」を周囲の人たちに出すのは怖いけれど、出してもいいかも…という和らぎでした。

合唱の練習をやってみてもいいかなと思えたのは我ながら進歩したというところです。

 

子どもの前で下手なりに歌えた

私は子どもの前でも歌うことはまずありません。
一緒にカラオケに行ったこともありません。
「お母さん、下手くそ」と言われるのが嫌だからです。

 

ここでも「できない自分」をさらしたくなかったのですね。

 

感情カウンセリングで「できない自分」を前面に出してみてもいいかと少し思えたので、台所仕事をしている時に歌ってみました。

相変わらず、主旋律に引っ張られて、アルトを歌っているはずがいつの間にかソプラノになっていたり、音がズレたりしてなかなかのひどさでした。

 

歌った後、子どもに「音がズレてるよね」と照れ隠しでおどけながら言ってみると「そうだね~、ズレてるね」という反応だけでした。
子どもの反応がサラッとしていたのでホッとして、「歌下手だもん」と言えました。

苦手な合唱を、「私できないの」と言うのは勇気がいりましたが、言ってしまうと緊張がほどけたように気持ちが楽になりました。

 

まとめ

合唱が苦手と思っていた裏には、子どもの頃の優等生でいなければいけないという思い込みがありました。
「できない自分」を見せたくないから苦手ということにしていたのです。
その思い込みに気づくことで心理的な障壁が低くなりました。

 

歌うこと自体は決して上手ではありませんし、「むっちゃ楽しい」ところにはいたりませんが、楽しめる余地は出てきたようです。

 

「できない自分」と楽しめるかは別問題。
楽しめる気持ちが出てくると、練習も前向きに楽しくなってきます。
指導されても受け入れやすくなります。

こうなると、苦手という意識はなくなるのかもしれませんね。
これからどう変わっていくか自分を観察してみたいと思います。

 

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