絵を描きたくない気持ちと向き合う
この記事の目次
はじまり
先日、絵のお教室に参加してみました。教室に来ていたのは子供ばかりでした。イラストを描く子が何人かいて、お教室でその添削をしてもらうという世界観に目から鱗が落ちました。
私が若い時は、絵といえば水彩画、油絵と決まっていて、デッサンから練習するのが普通だったのですが、今の子供たちはipadでイラスト作成から入るようです。私はベーシックに静物画の練習をしましたが、子供たちにダサいって思われそうで結構ドキドキしました。
子供の頃に絵を好きだと思っていたはずなのに…
さて、今回は絵を描きたくない気持ちと向き合うです。
私は子供の頃からよく絵を描いてました。なので、自己認識として絵が好きなんだろうと思っていました。美術館や博物館も好きで、時代を超えた作品をみると色々な刺激を感じます。
しかし、一方で、絵を習っても長続きせず、勉強しようとも思わず、本を買ってもそのままになる時があります。もしかしたら、子供の頃からよく描いていただけで、本当はそんなに好きではないのかもしれないという気持ちも持っています。
少なくとも、描きたい!という欲求はほぼありません。でも、描くと楽しいと感じます。今回はこの現象について紐解いていきたいと思います。
まず、絵を描くことが好きだと仮定して、絵を描かなくなった理由を思い起こしてみます。
高校くらいには絵が上手くないという自己認識を持っていました。私の周囲には絵の上手な子が何人かいて、その中では私はあまり上手くなかったのです。上手くないから描きたくなかったのでしょうか。それは、恥をかきたくないという感覚に近いかもしれません。
そこを意識すると、胸のあたりがザワザワしてきました。しばらくその感覚を見つめていると、怖れが出てきました。すると、高校の時の同級生がひとり思い浮かびました。
高校時代の苦悩を見つめる
その子はとても否定的な子で、何かというと私に否定的な言葉を投げかけていました。私ははっきりした態度をとることが苦手で、その子に言われたことを否定も肯定もせず、ただぼんやりと聞いていることしかできずにいました。
その子は油絵、英語、歌を中心にバリバリ練習していたようでした。予備校にも通っていて、外部の大学の受験を目指していたようです。
一方、私はどちらかというとのんびりしていて、自分のペースでなんでもやりたいと思っていました。その子から遊びに誘われましたが、あまり楽しいとは思っておらず、断るのが怖くて遊んでいました。
そのことをしっかり受け入れると、ものすごい苦しみに襲われました。怖れと怒りが同時にわいてきました。今までこんなに強い感情をそのままにしていたことに驚きました。
しばらく感じていると、学校の成績を上げるために、自分が無理をしていたことが感じられてきました。勉強することで精一杯で、絵を描きたいとか、本を読みたいとか、そういう欲求が徐々に歪んでいったのかもしれません。将来への夢も感じられず、どんな仕事がしたいのかもわからず、ただ、目の前の成績に追われていました。
勉強したことが無駄だったとは思いませんが、もう少し好きなことをしていてもよかったのではないかと思います。当時の同級生には、WEBデザインや空間デザインを仕事に選んだ子もいましたし、趣味で写真を続けていた子もいました。
私にはそういう道がありませんでした。自分にはもう無理だと、かなり早い段階で諦めていました。なぜなのでしょうか。
当時のことを振り返ると、私の心は恐怖に満ちていました。よく遊ぶ友達のことですら、私には怖れの対象でしかないくらいでした。そして、学校の成績が下がることは自分にとって絶望でしかなかったのです。それくらい、学校の評価に依存していて、自分の軸を持っていなかったのです。本来は、高校の選択からもっと慎重にしなくてはいけない状態だったのかもしれません。
絵が上手くないという気持ち
そんな状態の私でしたが、絵が上手くないと思った理由は具体的に何かあったのでしょうか。もう少し掘り下げてみます。
私の知り合う子たちには絵が上手な子がたくさんいました。でも、どうやって上手になったのか、一度も聞いたことがありません。その子たちの中には、絵を習っている子もいたかもしれませんが、私はそのことを確認したことがないのです。
もしかしたら、どうしたら上手になれるのか、わからなかったのかもしれません。練習すれば上手くなるというものだとは思っていなくて、理解していなかっただけかもしれません。
そもそも絵は才能によって描かれるもので、練習すれば上達するものだと知らなかったのかもしれません。
そう考えると、私が「練習によってできるようになる」という概念を実感したのはつい最近のことだと思えてきました。これまでは、今やってできないものは、未来もできないと無意識に思い込んでしまうところがありました。そのせいで、自分が将来何をすればいいのか、わからなくなってしまったのでしょう。今できることがあまりにも少なすぎて、将来何かできるような気になれないのです。
この幻想から考えると、現在、絵が上手いか下手かは重要ではなく、今後絵をもっと描いていけるようになりたいかどうかが重要に思えてきました。もっと絵を描けるようになったからといって、何が変わるのかわかりません。老後の趣味にしかならないかもしれないし、上達することで誰かに喜んでもらえるかもしれません。今はまだ未知数です。私の人生に役立つのかどうか判断できません。
ただ、この問いは、自分が上達の道を進む未来を選択するかどうかだけであって、頑張った結果、たいして上手くならなかったからといっても、大きく失うものがあるわけではありません。毎月何かを描く時間と道具代くらいが余分にかかるかもしれませんが、鉛筆と紙と消しゴムがあればすむ話です。
それでも、絵を描きたくないのでしょうか。自分に問いかけてみました。
すると、描くことは手間がかかるし、練習するのは面倒だと思うが、描くことに挑戦してみてもいいという消極的ではあるけれど、前向きな感覚が生じてきました。
同時に、怒りを感じているような気もしました。
絵が上達することに抵抗する理由
絵を上達する方向に向かうことは、私にとって辛いことのように感じました。上達することにコミットメントしてしまうと、他のバランスが変わってしまうくらい、影響のあるような気もしました。
絵を描くことは、私にとって誰にも触れられたくない部分なのかもしれません。絵を描くこととアイデンティティが結びついているのかもしれません。それくらい、自己価値に密着した部分と考えれば、変えたくないという気持ちも理解できます。
再度、絵を描くことを決めてみると、絶望感が出てきました。絵を描いたら死ぬのではないかと思えてきました。一人で描くのはいいけど、人に見られたくないと強烈に出てきます。それくらい、絵を描くことはデリケートなことなのでしょうか。
更に感じていくと、自分の気持ちを知られたくないという気持ちが出てきました。描いた絵を見られると、自分の気持ちが他人に伝わってしまうように感じているようでした。今まで、そういう体験をした記憶はありませんが、その可能性はあると感じます。ただ、それは絵を描くことへの怖れではなく、他人に自分のことを知られることへの怖れであるように思います。自分の気持ちを押し殺し続けなくてはいけないことに問題があるのであって、絵を描くこととは直接関係ないように思います。
内容に不一致は感じつつも、感情を感じていくと、絵を描くことへの怖れだけが残りました。これは、自分と向き合うことへの怖れのように思いました。絵を描くことは自分と向き合うことになるのでしょうか。これはそんなに重い話だったのか、感覚的には少しズレを感じつつ、進めます。
すると、自分には価値がないという気持ちが浮上してきました。単純に、自分には価値がないという思いがあることで、自分のアイデンティティと結びついた物事が全て「価値がない」という評価になってしまっているようでした。自分のやりたいことや好きなことには「価値がない」ので、「価値あるもの」を常に外側の世界に求めなくてはならない状態になり、自分の軸が失われやすくなり、更に「自分には価値がない」という感覚を増大させる原因になっていたようです。それなら、自分が「価値がない」と思い込んでしまったことをきちんと体験することが、私にとって重要なプロセスのように思います。
その一連の流れを受け止めると、深い悲しみが湧いてきました。自分の世界を否定する循環から、脱する日がきたのかもしれません。
まずは、絵を描いてみようと思います。それが私にとってなんになるのか、わからなくても、進めてみることに価値があるものもあるかもしれません。
自己探求&感情カウンセラー 山田結子