自己肯定を高めてみる
この記事の目次
はじまり
こんにちは。山田結子です。
先日、冷蔵庫が壊れました。一人暮らしをしてた時から使っていたもので、小さすぎて使い勝手が良くないながらも長く使ってました。以前より大きい冷蔵庫を導入して、スペースに余裕ができました。ところが、食材の買い方が変わらないので、冷蔵庫はほとんど空っぽ。でも、以前はぎゅうぎゅう詰めだった空間が、余裕があることが嬉しいので、なんだか幸せな気分です。
さて、今回の話題は、自己肯定を高めてみるというものです。
私は元々自己肯定が高くはなく、低い方が安心するタイプです。なので、積極的に自己肯定を高めようという気持ちはないのですが、あまり扱わないところをチャレンジしてみようと思います。
ありのままの自分について振り返る
まず、自己肯定の意味を確認します。「ありのままの自分を肯定する、好意的に受け止めることができる感覚」とあります。ありのままの自分と、そうでない自分の区別は重要なのかなと思います。
ありのままの自分を否定しているのは、どういう側面があるのでしょう。まず、身体や性格の特徴などから確認してみてみようと思いました。ありのままの状態が客観的に評価しやすいためです。
カラダにまつわることを意識してみると、高校生くらいには自分の声が嫌いだったと思い出しました。落ち着いた低い声に憧れていましたが、録音した自分の声が高音なのを知って、がっかりしたことを覚えています。友人にカラオケに誘われても、行きたくなくて、誘われるたびに辛い思いをしていました。小学生の時は、ところ構わず歌の本を開いて歌っていたのに、随分な変わりようです。
中学時代の残虐な感覚と向き合う
もう少し、細かくみていきたいと思います。
高校生の時は、ありのままの自分を知られたくないという気持ちがありました。自分の本音を人に知られてはいけないし、自分のあるがままを人に見せてはいけないという強い感覚があります。
中学校では、学校全体が荒れていた感じがします。私は、小学生の後半くらいから家庭でも学校でも人間不信が生じていたので、中学校に対してあまり大きな期待もありませんでした。学校は休まずに行ってましたが、自分が攻撃されないように、自分のことを隠すようにしてました。残虐な感覚も出てきたように思います。
当時の残虐な感覚に意識を向けてみます。すると、憎しみのような、絶望感のようなものが感じられてきました。この部分の処理を進めてみます。
自分が生きているのか、死んでいるのかわからないような感覚です。死に対する怖れと、思い通りにならない現実との狭間で、苦しんでいるような感じがあります。これほど強い感情をもちながら学校に行って、勉強していたのでしょうか。正直、この状態では、成績が上がらなくてもやむを得ないなと思いました。
更に処理を進めると、死に対する怖れを感じてきました。かなり強い怖れです。中学生の頃に祖父が亡くなっているので、死がそこまで遠い存在ではなかったように思います。しばらく、死に対する怖れを感じていると、この感情は自分のものなのか疑問に感じてきました。両親や祖父自身の感情が家庭内の場にあり、その影響をずっと受けていた可能性を感じます。そうかもしれないと思うと、何かが抜けて、頭の周辺が軽くなりました。残虐な感覚や人間不信を確認してみると、強い反応はなくなっていました。
自由に発言できない状況が続く
再度、ありのままの自分を意識すると、自分のことを知られると、相手から危害を加えられるのではないかという怖れであることがわかりました。
思い起こしてみると、学校では他者を批判する人が多く、家では母が延々と愚痴を言い、父がうるさいと怒鳴る場面が多かったです。私も何度か怒鳴られていて、言いたいことが自由に言える環境がなかったと思います。
難しい話を堅苦しく喋らないと馬鹿にされるような感覚もあり、友達と雑談するのも難しく、何気ない発言も気軽にできませんでした。大げさな言い方かもしれませんが、言論の自由という概念があることは知りつつも、実際に私の周りには自由はありませんでした。
ただ、それを受け入れてみると、私の声質と発言しにくい状況は関係なく、私の声が低いダミ声だったとしても、状況は何も変わらなかったかもしれないという気持ちが生じてきました。私の声は、私の体にとって適切な声であるという、当たり前のことが意識できてきました。
過去の性格や性質について振り返る
次に性格にまつわる否定について確認してみます。
私は以前から、無口で陰気な自分が嫌いだと思っていました。しかし、周囲の人の評価では、私は無口でもなければ、陰気でもありません。このズレはなぜ生じているのでしょうか。確認していきたいと思います。
自分が嫌いだという思いを感じてみます。すると、怖れが湧いてきます。それは、人から嫌われることへの怖れのようでした。学生時代、嫌われることは大きなリスクでした。クラスにはいじめもありましたし、いかに標的にならずにすむかは重要ではありました。
ただ、怖れをじっくりと感じると、母から嫌われることへの怖れが最も強いような気もします。それを自覚すると、弟が生まれてから、母に嫌われていると思うようになった可能性に思い当たりました。
弟は生まれつきの喘息やアトピーで子どもの頃、一度泣き始めると、ひきつけを起こしてずっと泣き続けていました。医療機関にお世話になることも多く、家族で遊びに行くことがなくなり、病院の待合室にいることが増えました。私はひとり遊びが増え、家にいても孤独な感覚を持っていたような気がします。
孤独を感じていると、怖れが出てきます。それを処理していくと、いい子にしていなくてはならないという感覚が出てきました。私はどちらかというとやんちゃな面があり、大人しく、問題を起こさず、静かにしていて、勉強にしか興味を持たないような人間ではありません。私にとって無口で陰気な人間とは、母にとっていい子の私だったようです。
そのズレを受け入れていくと、母の持っていたイメージに引きずられ、自己評価を下げていたことが認識できてきました。自分の個性に対して、再評価をしてみようと思います。
自分の性質を再評価してみる
物事を深く考えるタイプではなく、おおらかで、直感的な行動が多い子どもだったと思います。好奇心旺盛で、体をよく動かしますが、体力やバランス感覚が弱いので、それが原因で体調を崩すこともありました。傷つきやすい一面があり、一度心を閉ざすとなかなか相手に言いたいことが言えなかったり、人間関係に自信を持てない性質もあった、という特徴があったというのが適切でしょうか。
繊細だったのは確かです。一般の人よりも人の顔色を判断する目が細かく、相手の温度が変わった瞬間も捉えられるくらいでした。ただ、知識がなかったので、人とどう接すればいいのかわからずに、戸惑っていました。
人間関係に苦しんでいた私を意識すると、自分が傷つくことや他人が傷つくことを過剰に避けようとしていた様子がわかってきました。子どもだった私は心の傷の扱い方を知らなかったのでやむを得ません。消極的ではありましたが、選んできた道は大きな間違いではなかったように思えます。
そこまで理解が進むと、自分に対するネガティブな感覚が薄れてきました。自分を再評価することで、過去の私が正当に評価されるような感覚が生じてきました。
そして、家庭内で両親が私を見下すような態度をとっていたのを思い出してきました。知らないことがあると馬鹿にされたり、間違えると強く批判されたり、行動しようとするとあっちに行けと言われたりすることが、日常だった時期があります。
それによって、ありのままの自分を晒すと、見下されたり、馬鹿にされるのではないかと過度に心配して、あまり心を開かないようになったのだとわかってきました。
今では、ありのままの自分をどう思われても関係ないと思っていますが、私自身のネガティブな評価がそのままになっていたのが不一致の原因だったと思います。
ここまで向き合ってみて、ありのままの自分を十分に受け入れられたでしょうか。また、ありのままの自分を人に知られても問題ないでしょうか。
この問いに対して、以前よりもポジティブな感覚があります。もう少し怖れをみると、前向きな感覚が得られるかもしれませんが、今回はここまでで終了とします。
まとめ
最後に、自己肯定について全体的に確認します。この取り組みを始める前と比べて、どのように変わったでしょうか。
すると、より未熟な部分について、許容する感覚が生じていました。そういえば、できないことや熟達していないことに対して否定感がありました。それを許容できる感覚が強くなっているようでした。
また、子どもの頃の私と比べて、今の私が大きく変化していることを理解できてきました。全く別人のようだと思います。よくここまで変化を続けたと自分なりに評価できました。そこまで努力を重ねていた自分を嫌いにはなれないと思えてきました。
いかがでしたでしょうか。
今回は自己肯定と向き合ったところ、身体や性格を再評価する流れになりました。自分の性質を否定する力が強いと、その分だけ強い自己否定になりやすいと言われています。今回は、その修正を試みることができました。
日々の取り組みの参考にしていただければ幸いです。
自己探求&感情カウンセラー 山田結子