女性の価値は低いという気持ちを扱う 

はじまり

こんにちは、山田結子です。

最近、メダカの水槽の掃除用品を手に入れました。これがあると、水槽に魚がいてもそのまま水換えができます。小学生の頃、実家で金魚を飼っていましたが、当時は手掴みで金魚をバケツに移していました。メダカは繊細で、バケツに移すのも嫌がられるので、掃除に困っての導入です。今年も卵を産み始めたので、メダカにストレスをかけ過ぎずに飼育していこうと思います。

さて、今回のテーマは「女性の価値は低いという気持ちを扱う」です。

私は昭和世代の家庭で育ちました。祖父は長男を特別扱いして、私にはあまり関心を持っていないように感じていました。

家族関係の中で、女性であることの価値を見出せませんでした。母はほぼ専業主婦で、外で仕事をするタイプではありませんでした。私は母の姿をみて、女性は立場が弱く、専業主婦をしていたら更に価値が低くなるような感覚を持っていました。専業主婦であっても、力強く対等性を発揮している女性もいるとは思います。しかし、私にはそういう感覚はありません。今回はこの気持ちを扱ってみたいと思います。

 

両親の夫婦関係を見ることへの怖れ

まず、切り口をどこにするかを決めます。単純に、不平等な夫婦関係を対象として進めます。

夫婦関係を意識して感情を確認すると、苦しみが生じてきました。次に、怒り、怖れ、悲しみなど色々な感情が出てきました。親の姿をみていた時に、様々な感情を感じていたのに、これまで蓋をしていたのでしょう。当時、これだけ感じていたら、両親の姿を見るのが怖くなっていたかもしれません。

まず、怖れを中心に見ていくことにします。

 

夫婦関係を意識すると、また色々な思いが湧いてきます。その雑然とした感覚の中、怖れに意識を向け続けると、殺されるのではないかという気持ちが表面化してきました。夫婦間で殺意を感じるくらい、強い感情が動く場合があるという話も聞くので、それをキャッチしたのかもしれません。まずはその思いを受け入れます。

引き続き感じていくと、女性は取り替えのきく道具だという感覚が出てきました。女性は使い物にならなくなると、捨てられるという思いです。私の両親は離婚にはなりませんでしたが、私の中ではそれくらい女性の価値も人権も認められていないという感覚があるのかもしれません。感じているものは、否定せずに受け入れてみます。

すると、「女性には価値がない」という思いが出てきました。

なぜ、女性には価値がないと思っているのでしょうか。探ってみると、漠然とした固定観念のような感じがします。明確な理由がなさそうです。引き続き意識を向けていると、家系を維持するために重要ではないという感覚が出てきました。

家系を継続するには、長男が重要だという発想でしょうか。しかし、近年では長男がいても、家系が維持できるわけではなくなっているような気もします。そもそも、結婚して子供に恵まれなければ維持できません。そして、女性中心の家系では、女性の方が喜ばれる場合もあるかもしれません。それは、その家系の傾向であって、女性の価値とは直接関係がないようにも思えます。

では、女性の価値とは、なんなのでしょうか。

女性の価値から考える

仮に、ある人の価値を半分に分けて、男性的な価値と女性的な価値として考えてみます。

この人が男で生まれた場合はとても職人気質で仕事一筋で生きる人間だったとしたら、女で生まれた場合は家庭のサポートに120パーセントの力を使う人間なのかもしれません。これは意識の向かう対象が、仕事になるか、家庭になるかの違いだけで、この人の性質の違いを表していません。同じ性質の役割分担の違いでしかないように思えます。

性別の価値が生じるのは、環境要因なのかもしれません。男性が不足していれば男児が喜ばれ、女性が不足していたら女児が喜ばれるのです。あくまで、家系やコミュニティにおいて稀少な性別の価値が高く感じられるのです。稀少な性別に生まれれば、その性別であるだけで、特別扱いされることもあるかもしれません。そう思うと、「女性の価値」や「男性の価値」が幻想のようにも思えてきます。ある家庭に男児が三人生まれて、四人目が女児なら、その女児が特別扱いされても不思議ではありません。

では、私が個人的に女性の価値が低いと感じている原因はなんなのでしょうか。

ぼんやりと出てくるのは、母の姿です。母が家庭の中で、自分の価値が低いと感じている姿が目に浮かびます。私は母の影響を受けて、女性の価値が低いと感じていたのでしょうか。

母との関係を見直してみると、私は母との関係から、自分が女性であることに罪悪感を持つようになったのかもしれないと思い当たりました。母は私が女性的な部分を出そうとすると、否定してくるような印象がありました。とりあえず、女性であることの罪悪感を感じてみます。

すると、かなり強い恐怖心が出てきました。これくらい強いと、女性らしい振る舞いをすることに、強い制限がかかるはずです。女性である自分を認めないことで、どんなデメリットが生じているのでしょうか。

例えば、性別によって他者への評価や態度が変わったり、体への否定から心身の負荷が高くなったり、必要なものを買えなくなるなどの可能性が考えられます。生活に支障が出る面もありそうです。

 

男女の価値の差から本音を読み解く

男性でも女性でも、同じように評価され、同じように自分にあう選択ができて、社会で活動できることはとても重要であるように思います。多少、性別で求められるスキルや環境条件が変わったとしても、同じように自己成長できることや自分の性質を受け入れられることは重要であると思います。

そのためには、私自身の発想を変える必要があるかもしれないと思い当たりました。私が無意識に持っている発想に、男女差があるので、いつの間にか差ができてしまうのかもしれません。

「女性だから」「男性だから」こうするのが良いという発想をなくして、「人として」こうするのが良いという発想に切り替えてみるのです。この感覚で物事をとらえると「人として」生きるために必要な何かを身につけるという発想が生じてきました。

それが、仕事関連の能力でも、コミュニケーション能力でも、芸術的感性能力でも、身体能力でも、学習能力でも、家事能力でも。男女どちらであっても、必要な技術なら学ぶことは意味があると感じられてきました。

 

そのイメージを受け入れていくと、どちらが「お得な性別なのか?」という感覚が生じてきました。どちらかの性別の方が「得をしている」という感覚があったのかもしれません。ただ、これを言い換えると、どちらかを羨ましいと感じているのが本音でしょう。なので、羨ましいという感覚を意識してみます。

すると、「大切にされたかった」という気持ちが出てきました。男性は大切にしてもらえるけど、女性はそうしてもらえないと私は感じていたようです。

明確なきっかけは思い当たりませんが、家庭の中で女性の発言力が弱かった為にそう感じていたのかもしれません。だとすると、小さい差別感が私の中で蓄積した結果、自分は女性だから大切にされていないというイメージに繋がったと考えられます。仮に、母親の発言力が強い家庭に生まれていたら、私は女であることに過剰な自信を持ったかもしれません。

そのことを受け入れると、家庭内で発言力を持ちたかったというのが私にとって重要なポイントなのかもしれません。それに気づくと、深い悲しみが感じられてきました。

 

過去の家族関係から得られたもの

昔から、父は母の発言を無視することが多かったと思います。母は父に不平不満をたくさん持っていて、それを私に訴えました。弟は両親のそういう面を避けているように見えました。両親の関係は彼らの問題なので、本当のところは私には理解しきれない部分もあります。

私は、父のわがままに振り回され、母に様々な観念を守るように言われ、弟は我関せずという世界観に疲れていました。当時の私は、自分の人生を全力で生きるということができなくなっていました。

ただ、こうした経験から、人や対象との関係を変えるにはどうしたら良いかを真剣に向き合うようになりました。長い間、その重圧に耐えてきたので、我慢することができなくなってしまったのです。そして、その発想が今の仕事を根底で支えています。

昔の家族関係が今の仕事の源泉なのだと理解できると、欠けていた穴が埋まっていくように、過去が許せるような感覚が生じました。その気持ちを十分に感じていくと、満たされたような感覚が広がっていきます。自分を認めることができたのでしょうか。

 

ここまで取り組みを進めてみたので、女性の価値が低いという思いを見直してみます。どれくらい変化があったのでしょうか。

女性の価値が低いという感覚が弱まり、価値が低いと感じるのは個人レベルの感覚だという状態になりました。女性であることと、何を中心に努力すべきかということは、夫婦間のバランスで決まることであって、本人の選んだ結婚相手との相性の問題であることのようにも思えてきました。

ともあれ、自分が選んだ結婚相手との相性で、必要なスキルや生かせる経験が変わってくるので、相手を選ぶ時点で責任を持つことは重要だと思えてきました。

いかがでしたでしょうか。私にとって、夫婦関係から刷り込まれた男女差の影響は、想像以上のものでした。皆さんもイメージしてみるだけで、たくさんの気づきがあるかもしれません。これを読んでいただいたあなたにも、良い気づきがあれば幸いです。

自己探求&感情カウンセリング 山田 結子

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