自己承認 Vol.2: 感情の抑圧と世代連鎖(母方編) 

母方の祖母は佐賀から東京へ出てきたそうです。東京への関心が強かったそうです。都新聞社会部記者の祖父と所帯を構え、戦前戦中に7人の娘を授かりました。後年「新聞記者に嫁ぐものではない」と口にした記憶が思い出されます。しかし、祖母の家の壁には、祖父が取材で吉田茂首相と談笑して握手している写真が、ずっと掛けられていました。母は祖父(母の父)の記憶は少ないようです。経済面以外は実質的な母子家庭、女性8人の風変わりな家族システムだったかもしれません。祖父は過労か分かりませんが戦後しばらくして旅立ちました。ついに経済面も困窮家庭、当時は珍しくなかったかもしれませんが、祖母は生保レディのはしりで生計を繋ぎました。7人の娘たちもそれぞれ伴侶とのご縁で徐々に巣立ち始め、苦しかった家計も少しずつやわらいだようです。

 

祖母の記憶

祖母は祖父母4人のうち唯一、僕が生まれてから30年弱の時間を共有しました。幼少期は東京沼部の祖母宅によく連れていかれました。新幹線に近い木造家屋が頻繁に揺れた体感が、新幹線の走る音と共に残っています。母が高熱で寝込んだときは、祖母が僕たちの家に数日寝泊まりして母の看病や家事を務めてくれたこともあります。たまに僕への手紙でメッセージや切り絵なども送っていただきました。家系の影響か熱心なクリスチャンでした。多少英語の勉強もしていたようです。娘(伯母や母)たちと違い、あまり余計なお喋りはしない安心感の雰囲気を与えてくれました。不言実行的な人だったのかもしれません。

 

子ども時代の母

母は戦中、7人姉妹の6番目に生まれました。物心がつく頃に祖父は仕事で不在、祖母は母の次に生まれた末っ子の世話、祖父の死後は生計を支えるなどで、母は寂しい幼少期から思春期を育んだようです。姉妹間の関係も複雑だったでしょう。食事を忘れるほど本に夢中になった話を聞いたことがあります。寂しくても家計状況から甘えは見せられません。感情表現を抑圧する中、承認欲求の充足も妄想の世界で代行されたのかもしれません。その中で三女が比較的面倒をみてくれたそうです。後年、三女(伯母)は「当時は何で私がこんなに母親代わりしなきゃなんないの」と思うこともあったと話していました。

 

母の姉(伯母)

三女の伯母は結婚後も祖母宅に家族と同居しました。母も最も接しやすい姉なのか、僕も時々祖母宅に連れていかれたので、比較的接点のある方の伯母でした。三女は祖父似なのか他の伯母と面構えが違いました。伯母の長男(僕の従兄)はやんちゃで、鶏になりきるごっこなど意味不明な悪ふざけが過ぎてよく怒られました。従兄は馬耳東風でしたが、僕は怖かったことを覚えています。他の伯母や母たちは比較的猫なで声的な(僕の偏見ですが)高音が響くのに対して、若干ドスの効く声でした。ただ、信頼感がありました。今思えば、自己一致感か心根の優しさなどを直観していたようです。

 

姉妹の共同幻想

母は姉妹が集まる場だと、インナーチャイルドが露になります。10代まで姉妹間で愛情のシーソーや、牽制もあったのでしょう。時代状況的に、寂しくてもお互いに平気な振りのやせ我慢にならざるを得なかったのかもしれません。僕の主観的な見方ですが、母は姉妹の前で幸せを装います。不幸ではありませんが、必要以上に幸せぶりを示そうとします。その道具として僕も利用されました。僕とは違う、母の理想的な息子像にすり替えて話題に扱われました。『それはぼくぢゃないよ』と言えませんでした。僕の因子が勝手に反応しただけなのですが、姉妹同士で不一致感を相乗的に欺瞞し合う猫なで声のように響きました。祖母の家に姉妹が集う日は大抵連れて行かれました。体調が優れずもどした日もありました。気持ち悪くて臥せっている自分を労わってくれたのは、どちらかというと祖母や三女の伯母でした。

 

弟の養子入り

大人になってからの話です。僕の弟は縁あって、住み慣れた横浜を離れ、松本で地質調査業を営む家に養子入りしました。松本での結婚式に、親戚一同バスで向かいました。母は大切な息子が離れる寂しさからか、車中で大はしゃぎでした。一同仕切りの気遣いか、明るく盛り上げなきゃという顕在意識だったのかもしれません。沢山の食べ物・飲み物を用意してきて、僕は車中の配膳に何度か「ボーイさん」と呼ばれ使い回されました。車中の終盤は、見かねた伯父たちの「もういいよ」の助け舟とバス酔いから、聞こえない振りを決め込みました。おりこうさんの僕も流石に怒りを覚えました。結婚式の後半はバス酔いか会場に座っていられず、外気を吸いに何度か席を外しました。宿についてからは起き上がれず、二次会の席には就けませんでした。気持ち悪くて臥せっている自分を労わってくれたのは、父方の伯父たちでした。幼少期の祖母宅のデジャブのようでした。

僕の黒歴史

そんな母も、世間一般的な鬱陶しいおばさんレベルで、僕より個としての存在を認められない幼少期のケースは枚挙にいとまないでしょう。むしろ、戦後の経済的にもストローク的にも困窮した親子関係から懸命に生き、二人の男の子を育て、伴侶に突然に先立たれ、祖母の介護も姉妹で分担して最後まで看取りました。悲しみを一身に引き受けた事も真似できるものではありません。一方ですべてをポジティブサイドのみで構成するなら嘘になります。昔、母が赤子の僕に「泣いてはいけません!」と圧をかけたことを話しました。明確な記憶はありませんが、何となく「泣くな」の禁止令を埋め込まれた感じはあります。今も人前で基本的に泣けません。あまり弱音も吐けないし、家族と仕事の関係者以外は助けてが言えず一人で抱え込む面もあります。唯一アスリートの引き際だけ、嗚咽をもらすことができます(?)。

2歳の頃、平塚という海沿いに住んでいました。ある時、一人で砂浜に出て、砂遊びをして帰ってきたようです。母が誰かに、一人で遊びに行けるなんて如何に自立した子か、ピントをすり替えた誤魔化しの場面が記憶にあります。ことばは恐ろしいもので、その時から、自立すれば褒められるんだという誤ったビリーフが、長年魔法のようにインストールされました。

 

インナーチャイルド

幼稚園のときは、楽器メーカー主催の音楽教室に入れられました。自分の母親以外の親は全員が見学に来た回がありました。母は弟のケアで来れなかったようです。親子で臨むワークになりました。僕は一人で取り組みました。そのときは居たたまれない体感、モノトーンに狭まる視野などが思い出されます。このときも、あるお母さんが見かねて多少ケアしてくれたのが救いでした。

小学校3年くらいから水泳教室に入れられました。運動が苦手でしたので苦痛で仕方ありませんでした。習字、算盤なども加わり放課後は友達と遊ぶ曜日は限られました。母の意識はよかれと思ってのことでしょうが、母子ともに承認欲求に起因していたのか全て半端に終わりました。中古の自転車がよくパンクしたので、自転車屋さんとお喋りで一息つくのが束の間の憩いでした。

 

自己防衛

小学3年くらいか、母の誕生日に手作りのオリジナル人形をプレゼントしました。雑誌の付録か何かを見ながら、喜ぶ姿を想像しつつ時間がかかりました。渡した瞬間「ゴミみたいであまり嬉しくない」と言われました。たしかに、卵の殻を顔の肌にみたて毛糸の髪の毛を貼付、マジックで書いた目鼻口など美しくはありませんでした。花なら嬉しいと助言のつもりのようでした。これはすこしショックでした。

小学5年のとき、蔵王の伯母(母の姉)のところに、やんちゃな従兄とスキーに行く話になりました。ある日、学校から帰るとスキーのウェア類一式、母が買ってきてくれていました。お礼を伝えると「貯金全額おろしたから」と返されました。耳を疑いました。スキーに積極的でなかったこともあり、意思確認なく尊重されなかったことに流石に抗議しました。母は自分の正当性の証明に必死になりました。たしかに親たちのお年玉を数年貯めたお金ではあります。そんなことより、子の気持ちに配慮するより自己防衛を優先することに譲りがたい違和感を覚えました。帰宅後の父の仲裁にも珍しく譲ることができませんでした。たしかに頑なに1mmも許さないのはどうかと思いました。一方で、うかうか気を許したら土足で踏みにじられることを学びました。

 

感情の抑圧

今は死語ですが、昭和時代は「茶の間」がありました。夕食後に家族でテレビを見る時間です。母はテレビで笑える場面を逃さず、不自然に笑いを増幅し、明るく振る舞いました。それだけならまだしも、「ねえ」としつこく飽きずに笑いを押し付け続けます。へそ曲がりの僕は多少面白い場面でも一挙に興醒めしました。顔から表情が消え、よく能面になりました。今も同調圧力のかまびすしい人には能面が表れてしまうかもしれません。多少の余裕があるときは「痛い」感じがします。自分の中の未承認が刺激されるのでしょうか。

 

中高時代

中学2年から横浜の山奥に父が一軒屋を建てました。中1までは弟と二人部屋でしたが、一人部屋を与えられました。徐々に自我や社会意識が芽生え、ラジオやロックを聴くようになりました。子どもの頃は母も放任だったのに、この頃から顔色を伺われるようになりました。僕が何を考えているか分からず、思うままにならない感じがあったのでしょう。高1くらいだったか、母の何かの質問に素直な気持ちを答えました。それが仇になりました。父に共有され母の都合のいい方向に操作されました。気持ちと利用先の中身は思い出せません。それまでの些事も積み重なり、親ではなく家政婦さんなんだと決めました。弱みや本音は二度と見せまいと誓いました。

 

それから約40年。僕も横浜を12年間離れている間に2子を授かり、彼らも親元を巣立つ頃合いを迎えています。母とは二世帯住宅で日に数回挨拶するくらいの距離感。もう、かつてのような介入はありません。今、Withコロナの新常態の連休機会に、ゆったり振り返れたのは有り難い時間なのかもしれません。この40年も、お互いに様々なことがありました。変わった面と相変わらずな両面が表裏一体です。ビジネスの現場に偏った自分には、たまに母のお花畑的なご都合主義に呆れることもあります。

本当はお花畑なんて大した問題ではありません。僕のような現実好きが補えばよいだけです。母は激動の環境で最善に生きてきたのですから。そして、母親は誰しも多かれ少なかれ子どもに魔法をかける存在のようです。だからかバカな子どもを受け入れる面もあります。お陰でわりと鍛えられもしました。いい年した僕も、そんな母に安心を抱いてほしい気持ちはあります。感情のクリアネタもまだまだ満載でしょう。それでも僕のことを想い続け、母なりに懸命に生きた欠片に触れられたら幸いです。

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