自己承認 Vol.1: 感情の抑圧と世代連鎖(父方編) 

祖父は鹿児島から出てきたそうです。戦前、横須賀の海軍工廠で設計技師をしていました。その9番目の子として父は生まれました。長兄の戦死、祖父の死、父を可愛いがってくれた姉(僕の叔母)の病死、祖母は戦時の食料調達の苦労など重なり亡くなったと聞きました。次兄は一家を支えるため事業を始めましたが、上手くいかず持ち家も借金の返済に「取られ」ました。父の強固な持ち家(家庭)願望が決定された出来事になったようです。

 

世代連鎖からの発展

それから75年弱。父も他界して30年経ちました。父の入手した家を僕は今も離れられません。便利な土地とは言い難いですが、そんな不合理や呪縛も嫌いではありません。顕在的には思春期から父を回避してきたのに、父の願望のネガティブな出発点から恩恵も得てきました。ただ、自分の子たちにはこの継承は望みません。近未来の転居も意識の端にあります。感情のクリアリングや自己成長指向も、世代連鎖からの発展を着実にすることを、無意識のうちに狙っているのかもしれません。

 

居場所と感情の喪失

父の残された兄弟姉妹は、親戚にバラバラに預けられました。たらい回し的な側面もあったようです。終戦直後の食料難で、客観的にはたらい回し的ですら有り難かったのかもしれません。しかし、戦争前後に家族を喪失し、残された兄姉と引き離された思春期の父には、心の傷口に塩を刻印され続けた日々と思われます。自己否定感が継続的に深化したことが想像されます。本当は甘えたい気持ち、「居場所」を認めてほしいという心の叫びを押し殺していたようです。生き残りのため表情は平静を装い、周囲を刺激しないよう細心の注意を払っていたでしょう。父の周囲の人によっては、陰で穀潰しのようなことばに実態感を込めざるを得なかった情況も想像されます。

 

父の夢

勉強に努め(ざるをえなく)て、父は地域トップの高校に進学、成績優秀で特に英語は好きな要素も入っていたようです。米兵やキャンプが身近な土地柄の影響でしょうか。父に譲られた(押し付けられた)英語の学習書に書き込みの丁寧な字から、思春期だった自分も父の想いを無意識のうちに受け取っていたかもしれません。父の夢は大学で学び、商社で世界とやり取りある貿易仕事のようでした。息苦しい日々からの逃避指向も、動機に油を注いだかもしれません。

 

夢の挫折

しかし、そこは大学の学費を賄える現実ではありません。父を預かった親戚にすれば穀潰しに与えた分くらい、苦しい家計のやり繰りを早く助けてほしかったでしょう。父は進学を諦めました。その諦め感、今のことばならキャリアが閉じられる閉塞感も想像されます。日本が貧しい昭和20年代の半ば、高卒者に就職の選択肢は限られ警察官になりました。昭和の地方警察ですからパワハラの塊、キャリア官僚や身分社会の捻じれたわだかまりなど、多少理知的な指向の父には耐え難い時間だったようです。

 

念願の家庭から社会適応(学習)

そんな父にも春は来ました。母と出会い、僕と弟を授かりました。理不尽な組織も一部に信頼ある先輩後輩もあり、キャリアも地道に積み重ねました。顕在的には社会適応を進めたことになります。自己一致の面から見れば、自らの夢や持ち味、感情を押し殺して(まさに殺して)マイナスの社会学習を進めたということはできます。今の時代に、外野席の評論家的な安全地帯からなら、誰でも言うことができるという意味です。当時は父に限らず世代的に共通な社会適応、社会学習でした。亡くなられた菅原文太さんという役者が、ラジオで「戦後も心の戦争は続いている」と話されたとおりです。

 

世代連鎖で展開する戦争

心の戦争は令和の今も続いています。僕の世代も恵まれた一方で、自分の夢や持ち味、感情を押し殺して社会適応や社会学習を進めました。学生運動世代への反面教師像も手伝いました。あくまで一例ですが業績指向、会社は株主のもの、管理職や役員は偉いなどの考えがあります。今、30代や40代の顧客とビジネスでご一緒しても同様の考えは未だに共通言語として通用します。20代は少し様子が異なります。社会適応と自己一致のバランスはせめぎ合いの過渡期かもしれません。もちろん、業績や指揮系統の軽視は、自分を押し殺すのと根は同じでバランスの崩れた考えです。

就職で売り手市場に転じた2015年入社後とそれ以前の年代との間も、自己承認を得やすい緩め傾向と、自己否定ベースの厳しめ傾向との微妙なハラスメントリスクも窺えます。かつてバブル採用年代の方々に、氷河期年代の突き上げ的な反面教師感も見受けられました。日本の産業社会の特殊な動向かもしれません。一方、集合意識的な構造(否定・不安ベースと承認ベースなど)は、宗教対立や民族紛争などと重なるように見受けられます。

 

小さい頃の父親像

父の話しに戻ります。僕が小さい頃は、父は夜勤などのため家でゆっくりできる時間は少なく、あまりうるさいことも言われた記憶がありません。限られた僕との時間は、様々な場所に連れ出してくれました。母は3歳下の弟のケアで自由がきかなかったこともあり、交通博物館など父と二人で外出した場面がいくつか思い出されます。雑踏で父を見失いそうなとき、父の後ろ姿から伸びた手を安心して握った記憶もあります。今思えば数少ない救済的な些事と言えます。小学校の中学年から、母の子ども時代の充たされなかった願望の自己投影から習い事が増えました。父は放任の意見を表明してくれましたが。

 

承認のオルタナティブ

お利口さんだった僕も、中学から自我や社会意識が芽生え、ラジオやロックを聴くようになりました。限られたお小遣いでレコードも買いました。失敗したくないから丹念に音楽雑誌のレビューを立ち読みしました。失敗からフィードバックも得ましたが、40年以上経た今、たまに聴きに戻るのはローリング・ストーンズやブルース・スプリングスティーン、ビリー・ジョエルです。その中には感覚の純粋な充たされだけでなく、親への反抗やオルタナティブが混じっていました。歌詞や雑誌のインタビューも一所懸命に追い、社会におけるスタンスも鍛えられました。親から個として認められなかったことで、仲間や社会に承認の代替感覚が研ぎ澄まされました。

 

父の夢の投影

10代の後半は父親の当たりが最もキツイ時期でした。自分の制服の長さや太さ、髪形などが見えやすい要因でしたが、小学校のときの放任的な距離感に比べ、父の自己投影感は息苦しいほどの圧でした。最もコントロールがかかったのは、進路の分岐点の際でした。高卒の地方公務員試験をムリヤリ受けさせられましたが、大学と予備校も全て落ちたので浪人となりました。1年後はいくつかの大学に引っかかりましたが、ある伝統校に強制的に進学させられそうになりました。伯父まで駆り出されました。伯父は血の繋がりはなく僕に自己投影も一般並み、シベリア捕虜から生還し小さな会社をいくつか経営するリアリストでしたので、進学先にエキセントリックな想念や圧はかけませんでした。父は20代に仕事で擦り減る中、夜学で法学を修めました。子である僕の進学は、自己実現や自己承認に関わる重大事として投影されました。

終戦後、父たち兄弟はこの伯父夫婦に食わせていただきました。伯父は帰国後に裸一貫で、タクシーの運転手から再起しました。僕も伯父からたまに塩っぱい教えをいただきました。抑留の話しは一切聞かせていただけませんでしたが。伯父は晩年に心臓を患いました。僕の結婚式に臨席した夜に逝かれました。父の不慮の死後、父に代わり見届けて下さいました。

 

夢のリベンジ

この高3から浪人の進路についての父との距離感の中で、中学から培った自分の救いがたい我の強さに助られた面もありました。小学生で影響を受けたテレビドラマ「前略おふくろ様」や「俺たちの旅」も効いています(今も?)。また、僕の人生より、父の人生の果たせなかった夢のリベンジ色が分かりやす過ぎました。理解あるフリの裏メッセージで、親離れを認めない毒親よりはダブルバインドに嵌りにくかったと思います。ただ、自分を守るために父親はスポンサーなんだと思い込むよう決めました。スポンサーなら逆に感謝や接しようもあります。このとき、父に弱みや感情を見せないように細心の配慮を続けたツケは、後年の自己表現や人間関係に頑なさを残しました。心理学や感情を学ぶ動機にもなりましたが。

なお、ある程度の頑なさのおかげで、ビジネスや人間関係で助かった面もあります。マイナスに見える刻印もリソースとして使えます。個性の一部になってしまったかもしれません。父との葛藤があったからこそ自我が育まれた面も否定できません。また、自分が戦争前後に横須賀で思春期を過ごしたら、父のように生きることはできなかったでしょう。そんな父をいい年してようやく認めることが出来ます。

 

潜在的な影響と技術

父は、大人や社会からエンカレッジが最も必要な子供時代に、承認を得られませんでした。自分の子供によかれと思った進路助言も、子供の立場からは受け入れがたい強制に受け取られました。承認の琴線に触れる表象(このケースは大学進学)に出会うと、気づかぬうちに投影が自動的に作動します。潜在的な承認感が、思考や判断、言動を決定する側面が大きいのでしょう。特に人生の分岐点や中長期的な影響ほど、感情の風通しや承認感の潜在的な働きが影響を及ぼします。だからこそ、感情の解消と自己承認や他者承認(相互承認)が重要です。特に大人は多少は技術的でありたいものです。あまり天然に頼り過ぎる場合は、子育てや管理職以降は危ういケースも見聞きします。その手始めに感情のクリアリングがあります。

あれだけ、父の夢だった人生を継承するなんて御免被るとしていた自分も、立ち止まって振り返れば父や伯父にオマージュを捧げている側面も否めません。特に、否定・不安ベースの溶解、承認ベースの展開は、父たちの生きた証としても自分なりのお役立ちを進めているのかもしれません。

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